一生懸命やっている。手は抜いていない。むしろ人より動いている。
なのに、なぜか何も残らない。良くしようと差し出したものが、誰にも届かず、流れにならず、ただ消えていく。終わってみると、自分の中に疲れだけが沈殿している。
もしあなたが今、そういう場所にいるなら ―― この感覚には、名前があります。
不毛、です。
そして最初に、一番大事なことを言います。それは、あなたのせいではありません。
不毛とは、感情ではなく、関係の状態
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「不毛だ」と感じると、人はたいてい二つのどちらかに向かいます。相手を責めるか、自分を責めるか。あの人が動かないからだ、と外に向けるか。自分の力が足りないからだ、と内に向けるか。
どちらも、たぶん的を外しています。
不毛は、誰かの性質ではありません。あなたの無能さでもありません。それは、あなたが差し出したものを、その環境が何にも変換しない関係の状態のことです。
水と土を思い浮かべてください。同じ水でも、肥沃な土に注げば芽になる。不毛な土に注げば、ただ蒸発するか、淀んで何も潤さない。水が悪いわけではない。土が悪いと裁く話でもない。ただ、その土は、注がれたものを受け取らない。受容性が無い。
不毛とは、水の不在ではなく、受容性の不在です。
だから同じあなたが、同じ熱量で動いても、ある場所では流れが生まれ、別の場所では何も起きない。違いはあなたではなく、土と水のあいだの関係にある。これが分かると、自分を責める必要も、相手を憎む必要も、すっと消えます。ただ、ここは変換が起きない場所だ、と特定すればいい。
失敗とも、無駄とも、余白とも違う
不毛は、よく似た言葉と混同されますが、どれとも違います。
失敗ではありません。 失敗は、肥沃でありうる。こけても学びが残り、流れはどこかへ続いていく。失敗には変換がある。
無駄でもありません。 無駄は、資源を使いすぎただけ。それでも何かは生まれている。
不毛は、そのどちらとも違う。労力を注いでも、適応を重ねても、何にも変わらず、後に何も残らない。注いだものが熱になって散るだけで、決して流れにならない。
そして ―― ここが見落とされやすいのですが ―― 不毛は「余白」とも正反対です。
余白は、空いていること自体に豊かさがある、ゆとりのある空き。そこから次が生まれる。一方、不毛は、労力でぎっしり満たしたのに、何も生まれない空き。前者は光を生み、後者は熱になって消えていく。
一番不毛な現場は、たいてい一番忙しい
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ここが、見抜くうえで決定的に重要です。
不毛と聞くと、人は「暇」「停滞」を想像します。でも実際の不毛な現場は、その逆であることが多い。
果てしない調整。終わらない取り繕い。降ってくる曖昧な指示。実態を伴わないスローガン。動きは満ちている。みんな疲れている。誰も休んでいない。
なのに、流れはゼロ。
これが忙しい不毛です。最も巧みに水を運ぶ技術を、最も受け取らない土に投入し続ける状態。動いているから、なおさら「自分が足りないだけだ」と思い込みやすい。でも、忙しさと、価値が生まれていることは、まったく別のことです。
汗の量で、不毛かどうかは測れません。
不毛を見分ける、たった一つの信号
では、どう見分けるか。難しい分析は要りません。あなたの体が、すでに正確な計器を持っています。
その信号はこうです ―― 適応しているのに、手応えが返ってこない感覚。
合わせている。気を遣っている。場を読んで、最適に振る舞っている。頭の中ではずっと「これでいいか」を確認する処理が回り続けている。なのに、その労力が何かに変わっていく手応えが、まったく無い。差し出しても、伝わらず、ただ吸われていく感じ。
その感覚を、あなたは「自分の弱さ」として抱え込んできたかもしれない。違います。それは、不毛を検出するセンサーが正しく作動している、という合図です。あなたの体は、注いだものが残らない場所を、ちゃんと知っている。
私自身、三度、不毛に挑んだ
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抽象の話に聞こえたかもしれないので、自分の話をします。私は実際に、不毛に正面から挑みました。三度。最も柔らかい手から、最も激しい手まで。そして三度とも、同じことを学びました。
一度目は、会社員の時代でした。私は、現場の声や、会社の方向性についての思いの、受け皿のような役割を担っていました。それを背負って、社長とも役員とも話をした。けれど、その声が届くことは、ついにありませんでした。上の人たちには現場の感覚が無く、現場の思いや痛みは理解されず、ただ表面的な数字だけを見て、自分の立場を守る方向で居座っているだけの存在だった。あらゆる手で説明し、理解を得ようと動いても、声は届かなかった。圧倒的な力を見せて状況を変えられていれば、あるいは変わったのかもしれない、と思うことはあります。でも、届かなかった。現実的な打ち手は、本当は最初から無かったのかもしれない。そういう経験を経て、私は会社を去りました。
二度目は、独立してからでした。大手の中に、開発リーダーとして入ったときのこと。業務委託で参画していたメンバーのやる気の無さに苦労し、前に進めるために、私は自ら焔となって、力で何とか動かしました。一定の成果は出ました。それは事実です。でも、これも一時的なものでした。良い流れを、後に残すことはできなかった。
三度目も、独立後の現場です。搾取されている下請けの現場でした。多段の商流の中に、上でリスクを負わずに構造だけで儲ける会社がいて、誠実に働く友人の会社が削られていた。私はそこへ入り、その偉そうに振る舞う人間を排除して、去りました。成果は、ありました。でもそれは、茨の道でした。激しく疲弊し、そして去ったあとに、同じ良い流れを残すことはできなかった。私がいたあいだだけ一時的に変わり、私が抜ければ元に戻る。そこで得た学びは、ひとつに尽きます ―― 根本から搾取してくる取引先とは、最初から付き合わない。
正直に言えば、後者の二つのような動きには、自己満足の匂いがします。自分が頑張って、自分が動かして、「成果」という事実だけが手元に残る。けれど、流れは残らない。私はそれを、悲しいと感じています。
三度とも、私は不毛な土に、最も巧みに水を運ぼうとしていました。説得しても、力で動かしても、排除しても ―― 土は、受け取らなかった。手を変えても、結果は同じだった。それは、私の技術の問題ではなく、土の受容性の問題だったのです。
見えれば、選べる
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この記事で渡したいのは、不毛な構造を「こう直せ」という解決策ではありません。正直に言えば、多くの場合、現場の一人が構造そのものを直すのは難しい。分かっていても、権力や政治の壁で動かせない。それが不毛の不毛たるゆえんでもあります。
だから、まず渡したいのは、解決策ではなく 見る目 です。
今いる場所が不毛かどうかを、自分の体の信号で見分けられること。そして、それが失敗でも、自分のせいでもなく、変換の起きない関係の状態にすぎないと、切り分けられること。
それが見えた瞬間、あなたは初めて選べるようになります。
ここに留まって、土を変える賭けに出るのか。それとも、自分の水を、受け取ってくれる土へ運ぶのか。どちらが正解ということはありません。ただ、見えていなければ、選ぶことすらできなかった。見えれば、選べる。
消耗を、無力さとして抱え込むのをやめていい。それは無力さではなく、まだ名前を与えられていなかっただけの、不毛という関係です。
名前がつけば、距離が取れる。距離が取れれば、選べる。
それでも、不毛とどう向き合うか
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ここまで、不毛を見分け、距離を取る話をしてきました。でも最後に、もう一段だけ。
世の中には、不毛があふれています。どの組織にも、どの商流にも、どの関係にも、変換の起きない場所はある。それを全部避けて生きることは、たぶんできません。
だとすれば、本当に大事なのは、不毛が無い場所を探すことではないのかもしれない。不毛があるという現実を、知らないままでいるより、十分に理解したうえで、そのうえで自分がどう納得して動くかを、自分で選ぶ ―― その意識のほうです。
それに、もし完全に不毛が無くなったとしたら。それは、もう何も生まれる余地のない、完成しきった世界です。たぶん、ひどくつまらない。不毛があるということは、まだ変換されていない余地が、世界に残っているということでもある。
不毛を無くすことが、目的ではない。不毛と、どう向き合って生きるか。それを選び続けることが、社会の中で生きるということなのかもしれません。
―― あなたが今いる場所が不毛かどうか。すべては、それが見えていることから始まります。

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